何が幸せか人生観を考えるに至る病院の付き添い
本日は近隣の病院へ
愛息子が風邪を引いちゃったので、付き添いです。
人が多い、、、
将来いや今後というべきか。
更にここに人が駆けつけた場合に
一体どれくらいの時間が取られるようになってゆくのだろう。
江戸時代に生きた人々の一生分の情報を1日で得られる現代に多少の待ち時間は瞑想などをして、
待っている間は心身を整える時間に充てるなどして有効活用すれば何てことはない。
ただ何も無く
『待つのみ』
という行為に人は不快感を感じるのであって、
その時間は発想を換えると
【常識の範囲で何をしてもよい幸せな時間である】
と考えられなくもない。
但し、そういった知恵を持たない人にとっては
実に長たらしい無駄な時間となってしまう。
そういった知恵、知識などの部分でも格差社会が示現されている。と言っても差し支えないのではないだろうか。
こうして、沢山の分野での格差が生まれていき、
その差に気付く事もなく
何が幸せか、何を成し遂げるべきかを感じる事すら無く
そして沢山の人生が日々閉じられていく。
何が幸せかの価値観の問題になってくるんだろうが、
その隅と隅を比べる事は常人には不可能であるとしても
違いを感じ取れるくらいの位置には常に居たいものである。
人生とは長いようで、とても短い。
人生の損をするとはそういう事ではないだろうか。
一度しかない人生なのだから
やれる事はやり。
違いを感じ取れる事は感じ。
そして、成し遂げる事は成し遂げていく。
そうありたいものである。